各界の第⼀線で「未知なる領域」に挑み続ける方々の思考を紐解くインタビュー連載『挑戦の人間学』。結果だけではなく、そこに⾄るまでの葛藤や、⾔葉にできない過程に光を当てます。
今回は、哲学者・作家の永井 玲衣さんにインタビュー。
「人びとと考えあい、ききあう場を各地でひらく」取り組みとして全国各地で「哲学対話」を実施している、永井さん。今回は、永井さんの歩みと「組織での対話の可能性」をテーマにお話を伺いました。
▪︎哲学対話とは
学校、企業、美術館など、さまざまな場に集まり、ともに“問い”について考え合う対話の場。永井玲衣さんの哲学対話では、世界を見つめて考える“手のひらサイズ”の問いをともに深める空間を創出している。
本記事では、その取り組みを体現すべく、「対話」形式にて行う“挑戦”をしております。
プロフィール

永井 玲衣(ながい・れい)
人びとと考えあい、ききあう場を各地でひらく。哲学対話や、政治や社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」なども。著書に『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』『さみしくてごめん』。詩と植物園と念入りな散歩が好き。
世界の「わけの分からなさ」に惹かれて
——以前、永井さん主催の哲学対話に参加したときに「対話」の重要性をあらためて感じました。ですので今回も、決めた質問通りに進めるというよりも、「対話」に近い形式で永井さんの“今”の言葉を残したいと考えています。本日はよろしくお願いいたします。
ぜひぜひ。私は「対話」って、すごく創造的な場だと思っているんです。 あらかじめ用意しておいたものをしゃべるというよりも、“今”の私が「問われたからこそ出会った“今”の言葉」を、柔らかいままにポロポロと出している感覚があって。それをみんなで見つめながら、さらに「こうかな」「どうかな」「私はこうするかな」といったように粘土をこねていくような行為が「対話」だと考えているので、今回もそうやって一緒に作っていけたらと思います。
——嬉しいです、ありがとうございます。この連載では、結果だけでなくそこに至るまでの過程に光を当てたいと考えています。永井さんが「対話」に興味を持つ以前には、どのようなことに関心があったのでしょうか。
文学です。なかでも「不条理」を描いた文学がとても好きでした。
哲学をしているというと「もともと考えることが好きだったんですか?」「あらゆる出来事に『なぜ?』と疑問を抱くことが多かったんですか?」といった質問を受けることもあるのですが、私はそういうタイプの子どもではなく、むしろ、10代のときにはひたすらにモヤモヤしたり、イライラしたりしていました。それらが「問い」という形になることはなく、当時はとにかく言葉にならない焦燥感と不安のなかにいたことを覚えています。
そんな世界で、どう生きていけばいいんだろう。そう考えていたときに、いろんな人や社会の在り方を教えてくれる文学の力に救われたんです。
——永井さんの著書には、詩や小説からの引用も多いですが、それは文学に触れていたからなんですね。
まるでスプーンで口に入れられるように、本を通して言葉を“与えられて”いましたね。
読書を進めるなかで『変身』で知られるフランツ・カフカや『異邦人』のアルベール・カミュなどの「不条理」をテーマに描いた作家たちと出会いました。チェコの作家のミラン・クンデラ、大江健三郎、寺山修司も好きで……。こう並べると、「不条理」について描いている作家たちが本当に好きなんだな、と思います。

——大江健三郎といえば、私は『個人的な体験』がとても好きで。暗いトンネルのなかを掘っていって、その先に、うっすらと差し込む光を見つけたような感覚になったんです。深く落ち込んだとしても、そこから無理して這いあがろうとしなくとも暗さのなかにも明るさがあると知れた、というか。
うんうん。私が「不条理」の世界に惹かれたのは、そんな世界の複層性からなんです。
対話をしていて感じるのが「人間は言葉では言い表しきれない存在である」ということ。明るいし暗いし、暗いし明るいし、といったことが同時に混在している、そんな“わけが分からない”複雑さがあると思うんです。
「不条理」を描いた文学に触れることで「世界はとにかく“わけが分からない”」、そして「私たち人間がどんなに意味づけをしようとしても、そこからこぼれ落ちてしまうものもあるんだ」と知ることができる。そんなところに打ちのめされました。
——人間がどんなに意味づけをしようとしても、そこからこぼれ落ちてしまう“わけの分からなさ”がある……。そんな「不条理」に惹かれる理由を、もう少し詳しく伺ってみたいです。
「不条理」というとなんだか暗いとイメージされがちなのですが、全然そんなことはなくて。ともすれば、カフカをゲラゲラ笑いながら読むことも可能だと思うんですよね。
たとえば、カフカの『失踪者』という作品では、カール・ロスマンという15歳の少年がとにかく翻弄されるのですが、何らかの酷い目に遭い続けているのに、彼はそれとは関係のない「傘がないこと」に意識が向いているんですよ。
大事な場所に行かなければならないのに、彼は「傘がない」「傘がない」と、「傘がなくなった」ということに集中している。人によっては「傘よりももっと重大な問題があるでしょう」と言いたくなるかもしれない。「なんでそんなに傘のことが気になるの?」と笑ってしまうかもしれない。それでも、本人はひたすらに傘のことを気にしている。
……そういうことって、私たちにもあると思うんですよね。とんでもない状況にいるのに、とにかく目の前の、一見どうでもいいようなことが気になってしまうようなことが。
この世界は、ときに恐ろしさを感じることもあれば、馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまうこともある。そのような複層性は「悲しいから涙を流す」といった“分かりやすさ”ではないかもしれません。
不条理文学の、そんな複雑な人間のありようが出ているところに、私は強烈に惹かれたんです。その“わけの分からなさ”への関心は「文学」にも「対話」にも通ずるところですね。
哲学対話のフィールドへ進んだ、「心地よさ」への危機感
——不条理のなかでも割り切れない“人間のありよう”に救われた。そんな「文学」から、さらに一歩進んで「哲学」という領域に足を踏み入れることになった、最初の出会いはどのようなものだったのですか?
高校生のときに、実存主義で知られるフランスの哲学者・サルトルの本を読んだことがきっかけでした。
当時の私は、文学を通して“与えられていく”ということに、非常に従順になっていて。哲学は「“誰か”が考えるんじゃない。“あなた”が考えるんですよ」という営みなのですが、それまで“与えられる”ことが当然だと思っていた私は「えっ? “私”が考えるの!?」とびっくりしたんです。当時高校のラウンジで本を読んでいたのですが、その衝撃は今でも鮮明に覚えています。
“与えられる”ことに慣れていた私にとって、“自ら考える”営みは新しい「自由」の手触りを感じさせてくれるものでした。それで「これを哲学と呼ぶのであれば、学んでみよう」と、哲学科に進むことを決めたんです。
——永井さんは学校や企業などで「哲学対話」と呼ばれる場所をひらいています。大学に入った当時から、将来的に今のような活動をすることは、どこかで見据えていらっしゃったのですか?
当初はまったく想像できていませんでした。哲学科の日々はとっても楽しかったんですけど……なんていえばいいんだろう、きっと、居心地が良すぎたんですよね。
私はよく、哲学対話で大事なこととして「誰のことも、どんな意見も馬鹿にしないこと」と伝えているのですが、それは哲学科で過ごした日々が原風景なんです。
たとえば私が、「水たまりの水は飲めないのに、なんでペットボトルの水は飲めるんだろう」とつぶやいたとして、大学に進学するまでは「そんなこと考えても無駄じゃない?」と言われてしまっていたんです。そのなかで、哲学科で出会った人たちは、私のつぶやきを“問い”として受け取って、大真面目に「それはきっとこうだからじゃない?」と返してくれる風土があって、とても助けられました。
ですが、その居心地の良さとともに、「このままでは少しずつ閉じていってしまうのではないか」という危機感も生まれはじめたんです。

——危機感、ですか?
はい。きっとあのまま「対話」が前提とされる世界で過ごしていたら、身の回りの気が合う数人とだけ話すようになっただろうな、と思うんです。
そうなると、過ごす時間や対話が重なるに連れて、あらゆる前提が共有されていく。次第に「あれがね」と話したときに、「あれ」が何のことか説明をせずとも伝わったり、言葉がどんどん省略されていったりしてしまう……。そんな日常に慣れてしまうと、むしろ世界が閉じていってしまうのではないか、と思ったんです。
そんなときに哲学対話の活動に出会って、10代のころに感じていた「他者の難しさ」を思い出したんです。「そうだ、社会や他者って、もっと複雑なものだったわ!」って。
見ず知らずの人と言葉を重ねるときには「あれがね」では通じない。目の前にいる他者や社会と分かち合うためには、相手と向き合うこと、言葉を尽くすことが必要になるんです。もちろんそのなかでは傷つくこともある。それでも私には「他者」が必要なのだ、と思いました。
——簡単ではない「他者の難しさ」に直面したとき、どんな感情が湧き上がってきたのでしょうか。
あらためて「難しいな」と感じましたが、同時に、そのことを嬉しいと思う自分もいましたね。
“わけが分からない”他者に向かって、言葉を一生懸命に手繰り寄せようとしながら話したり、そのなかで未知の言葉が生まれたりする。そして、その生まれた言葉たちは、空っぽだったり、乏しかったり、頼りなかったりするんだけど、でも「なんかわかんないけど言いたい」みたいな気持ちはあらわれている……。
そんな「他者性」に絶望もするし、励まされもするって、面白い。そう感じて、今も「哲学対話」に取り組んでいます。
スピードと引き換えに失った「尊厳」を取り戻すために
——まさに私も、未知の言葉が生まれる瞬間を求めてインタビューをしているような気がしています。
適切な表現ではないかもしれませんが、あらかじめ用意した質問に答えてもらうほうが早いし、労力を使わないと思うんです。けれども、記事を完成させるために必要な要素を集めていく方法だと、この“場”に生まれるものというよりも、目の前にいる人の“過去”を残す感覚になる。それってこの“場”をおざなりにしているような、限界を感じてもいて……。
「対話」のアプローチは、この“場”、この“瞬間”に生まれたものを大切にする取り組みとして興味深く感じています。永井さんの考える「対話」の面白さってなんでしょう?
はじめに「この人ってきっと○○な人なんだろうな」と思ったとしても、そこに留まらない側面だったり、簡単じゃない“人間のありよう”のようなものがあらわれているところ、でしょうか。
私は今、いただいた“問い”に答えるために言葉を探しながらお話しているんですけど、ぽつりぽつりと発せられる「言葉」と、その瞬間の私の「心」や「考え」がぴったりと重なっているとは限らないじゃないですか。
たとえば、私が今「水が飲みたい」と言ったとします。そうすると「永井さんは『水が飲みたい』と思っているんですね」と、まるで言葉と感情が完全に一致していると思われがちです。ですが「対話」をすると、「水が飲みたい」にもいろんなグラデーションがあるんだな、と気づけるんです。
本当は「水」じゃなくて「コーヒー」が飲みたかったかもしれないし、「とてつもなく寂しい」という感情を「水が飲みたい」という言葉にあらわしていたかもしれない。必ずしも「言葉」と「心」が一致しているとは限らないんです。
——私たちはつい「出てきた言葉=その人の100%の想い」だと解釈してしまいがちですが、実際はもっと曖昧で、揺らぎのあるものですよね。
しかも面白いことに、言った本人すらそのことに気づいていないケースもあるんです。
対話の場でそういう瞬間に出会うと、目の前にいる相手が本当に考えていることを知ったり、自分自身の心の声に気づいたりすることって、時間がかかる営みなんだなと実感します。
「ならば時間をかけてやろう!」。そんなシンプルな想いで「哲学対話」の活動をしています。

——今、永井さんは企業内でも哲学対話を行われています。資本主義社会のなかだと、どうしても売上やスピード感が重視されて、“個人”の声がきかれづらくなる傾向にあると思っていて。そんな組織のなかで「対話」を行うことは、どのような意味を持つとお考えですか?
人間の「尊厳」を取り戻すことにつながっているんじゃないかな、と思います。
そもそも、私たちは「労働者」である以前に「ひとりの人間」で、「組織」も「人間」の集まりなんですよね。ですがこの世界ではあまりにも「この事業を成り立たせるためには、お互いを人間として扱わない、つまり“非人間化”しなければならない」という思い込みを持った人が多い気がしているんです。
哲学対話で行う「時間をかける」「自分の言葉を探す」といった取り組みは、完成されたものではない、“半熟状態”の言葉を場に置けること、そしてそれをちゃんと“きいてもらえる”という場所を持つことだと思っていて。これらの取り組みは、その人の「尊厳」に関わることだと考えています。
——「半熟の言葉をきいてもらうことが尊厳に関わる」というのは、まさに効率や成果を求められる企業組織において見落とされがちで、かつ切実に求められていることだと感じます。
もちろんこの話も、組織の内部にいない立場だから無責任に言えることではあるとも自覚しています。でもこれを言うことさえなくなると、それはそれで辛い社会だな、と。なので、無責任ながら話すんですけど……。
私たちはきっと、人間の尊厳と引き換えにスピードを手に入れてきた。その結果、今はいろんなことが「早すぎる」し、社会はそのことに気づきつつあると思うんです。少なくとも「今の状態が人間の最高状態だよね!」と言っている人って、あまりいないじゃないですか。
「なんでこんなにうつ病の人が多いんだろう?」 「なんでこんなに離職率が高いんだろう?」……。そんな問題を見て見ないふりをし続けてきた結果、「そろそろ本腰を入れて考えないといけないよね」という局面になっている。つまり、主義主張は違えど、同じ問題意識を持っていると思うんです。ならば、私たちは連帯できるはずだと、私は考えています。
“問い”の前での「対等性」を分かち持つ、対話の在り方
——「主義主張は違えど、同じ問題意識があるならば連帯できるはず」という言葉が印象的でした。
それは、効率や生産性をめぐる呪い……広く言えば優生思想も同じだな、と思っていて。
▪︎優生思想とは
遺伝的に優れた人種や能力を持つと考えられる者を保護し、反対に劣っているとされる者を排除するべきであるとする考え方
私たちは心のどこかで「人間は生産性がないと生きる意味がない」と、優生思想に苦しめられている。そしてそのことに気づかず、他者に「お前は生産性がないからダメだ」と指を差してしまう人もまた、「生産性がないといけない」「生産できるようにもっと働かないと」といった呪いを自分自身にかけているわけですよね。
そうなると、誰が良い/悪いという対立構造ではなく、みんなが社会にそう“思わせられている”当事者であって、「みんなが呪われていて、みんなが苦しい」と考えることができます。
当事者研究で知られている熊谷晋一郎さんは、そんな社会のなかで「みんなが呪われているなら、せめて自分だけは、そのなかで一番に輝こう」「負けないように走り抜けよう」という風潮になっているけれど、そうではない、「みんな呪われているんだから、連帯してそこからみんなで抜け出そう」という道もあるはずだとおっしゃっています。わたしもその道を信じたいと思っているし、そしてそのひとつが、人間の「尊厳」を中心にした「対話」の場を作ることだと思います。
——その「連帯の第一歩」を踏み出すために、私たちは目の前の他者と、まずどのように向き合えばいいのでしょう。
よく「話せばわかる」という言葉をききますが、私はもう少し変形させて「きかなきゃわからん」と言いたいな、と思っています。
たとえば、ある対話の場で、「母親というのはこうですよね」という発言をした方がいたんです。それは他の人にとっては、一見すると「“母親”という存在に対して固定的な考えを持っている」と否定的に感じることかもしれないじゃないですか。
ただ詳しくきいてみると、その人はご自身のお母様が大好きで、その話をただしたいだけだった。
一方で、参加者のなかには「『母親はこういうものだ』という考えがしんどくて……」という方もいて。その人の話を、母親が大好きだと発言された方も含めたみんなできくわけです。「そうか、そうだよね」と“きき合って”いく。そのなかで少しずつお互いを知れたり、考え方が変化したりする。
それらもすべて「きかなきゃわからん」ことなんです。「きいてあげる」んじゃなくて「きき合う」、「考えてあげる」んじゃなくて「考え合う」。そのプロセスこそが大事だと思います。

——永井さんが最も大切にされている「対話の在り方」とはどのようなものですか?
私は、対話で大事なのは「対等性」だと思っています。
「対等性」という言葉だけを切り取ると「対話をしたら権力勾配がなくなる」と受け取られてしまうこともあるのですが、全くそうではなくて。「権力勾配をなくそう!」と言いたいのではなく、組織におけるパワーバランスが変わらないことは事実として、「だけれども、せめて“問い”の前では対等であるということを分かち持ちたい」と伝えています。
とはいえ、とくに組織では、対話をしようとしてもその時点ですでに上司・部下というパワーバランスがあったり、そもそも「この時間内に決定しなければならないことがある」という制約があったりと、「対等性」を担保しづらいことも多々あるじゃないですか。
そういう場合には、そのなかで無理やり「対話」をしましょうというのではなく、また別のものとして、“「対話」に集中できる場”を作りませんか、そしてお互いの声をきき合いませんか、と提案しています。
小さな音に耳を澄ます。「きくこと」と「きかれること」の連関
——上司・部下といったように、仕事における関係性があると、上司側が「相手を知りたい」「興味がある」といった純粋な好奇心からの問いを投げかけたとしても、部下側が「否定された」「責められた」と誤解されてしまうことも多い気がします。もし、きき方のルールのようなものを設けるとしたら、ぜひ教えていただきたいです。
きき方のルール……全然わからないんですよね。哲学対話の場でも「皆さん、ここは“よくきく”ということを一緒にしてみたいんですす」とはいうものの、「……“よくきく”というのは私にもどんなものなのかわからないんですけどね」「わからないから、やるんですけどね」と小声で付け足してしまうくらい、未知なものなんです。
そうしているのも「きき方のルール」と決めて「ステップ1! ○○をしましょう!」と決めることの危うさを感じているからではあるのですが、その上で、ひとつだけ挙げるとしたら……。「一生懸命きく」 、でしょうか。
——永井さんにとって、その「一生懸命にきく」とは、具体的にどのような感覚なのでしょうか。
谷川俊太郎の『みみをすます』という詩、ご存じですか? 私はこの詩を通して「一生懸命きく」感覚を何度も思い出させてもらっているんです。
『みみをすます』は、
「みみをすます
きのうのあまだれに
みみをすます」
と始まるんですね。
「みみをすます」という一文は、すぐ目の前にある、“今”もっとも“きこえやすい音”をきこうとすることだと受け取られがちだと思うんです。
ですが、この詩では「きのうのあまだれ」と続く。昨日の雨だれというものは、言葉通り“昨日”の、つまり今ここにはないもので、そして“雨だれ”はきっと、きこえづらい、小さな音だと思うんです。
この詩を読み解いていくと、“今”ここにはないものだったり、きこえづらかったりする、意識をしなければ届かないかもしれないところまで気持ちを向けようとする姿勢が「耳を澄ます」ことで、それが「一生懸命きく」ことにつながっているんじゃないかな、と思っています。
実際に哲学対話では「よくきくこと」「自分の言葉で話すこと」「『人それぞれ』で諦めないこと」をみんなと約束したいと伝えるのですが、最近は説明をするときに「ここにはいない人の声にも耳を澄ませてみようと想像力を伸ばしてみる場にしませんか?」などと付け加えることもあります。

——「一生懸命きく」……。お話をきいていて、私はあまり「きくこと」ができていなかったんじゃないか、と反省しました。
今でこそ、人にはいろんな揺らぎがあると思えるのですが、私は昔から「言葉」と「心」を一致させるように努めてきたんです。けれど大人になるにつれて、「お世辞」や「社交辞令」もそうですが、世の中には「心と一致していない言葉」がたくさんあるということに気がついて、衝撃を受けました。
「心と一致していない言葉」を発している人たちに、「本当はどう思っているの?」「私はこう思う」などと問いかけてきたのですが、それって耳を澄ませられていない、暴力的なことだったんじゃないかな、と。
私が興味を持ったことなんですけど……。これまでに「自分の言葉をしっかりときいてもらった」と感じた経験ってありましたか?
——いえ、あまりないです。むしろ「あなたらしい!」と迎合されるか、「正論をぶつけることは暴力だ」「世の中は正しいことばかりではない」と諭されるかの二択でした。そこで私が「じゃあ、あなたは“正しい”と思っていないことを言っているということ?」ときくと「いやだから、それは“場の空気”的に問題が……」と避けられて、モヤモヤして。
なるほど。……これまでお話をしていて、率直に「私は全然人の話をきけていなかったな」と反省していて「すごいな」と思ったんですよね。もちろん、そういう(きけていない)側面もあったかもしれません。ですが私は「発した声をちゃんときかれていなかったんじゃないか」ということの方が気にかかったんです。
対話をしているなかで気づいたのが、「自分が『相手の言葉をきけない/きけなかった』と感じるときは『発した言葉がきかれていない』ときでもある」ということ。「きくこと」と「きかれること」って、連関しているものだと思うんですよ。
—— 「きくこと」と「きかれること」は繋がっている……。私にはない感覚でした。
あるとき、哲学対話に来た方が「私ね、ちゃんと話したいだけなんです」と言ってくれたことがあるんです。「ちゃんと考えたい、ちゃんと話したいだけなんです」と。
ですが、その人がいざ自分の考えを伝えようとすると、近くの人が「そんなに難しいこと、わざわざ考えなくていいじゃん」と押さえつけたり、「○○さんらしくていいよね、がんば!」と雑な全肯定をしたりする。
ですがその人は「そういうわかりやすい回答がほしいんじゃなくて、“あなた”とちゃんと話したいんだ」と感じている。けれど声はきいてもらえない。そんな気持ちを想像すると「きかれる場がないことって辛いことだよな」と思うんです。
コストのかかる「対話」。それでも私たちが「水中」に潜る理由
——たしかに、辛かったです。もしかすると私のように、自分がきいてもらえなかった痛みを抱えている人は、多いのかもしれないですね。
私も10代のときには「私はこう思う」と言っても「どうでもいい」と返されていたんです。それが、大学で哲学科に入って、世の中にはそういう人ばかりではないと知って。
そのぶん居心地もよかったのですが、同時に、“対話を前提としている私たち”と、“そうではないその他大勢”という対立構造を無意識に生んでしまっていたとも思っていて。そしてその構造こそが、結果的に「きき合う場所」をなくしていたのではないか、とも感じるんです。
——永井さんにとって、そうした「“対話の場”からこぼれ落ちている人」や「その他大勢」に見えていた存在へと、あえて飛び込んで意識を向ける取り組みこそが、今の「哲学対話」だったのですね。
さまざまな場所で哲学対話をするなかで知ったのは、10代の頃に“その他大勢”だと思ってしまっていたはずの人たちも、実は内側でいろんなことを考え、感じているんだということ。
哲学対話には「何がなんでも対話をしたい!」という人ばかりではなく、むしろ「別に対話をしたいわけではない」という消極的なスタンスの方も多いんです。ですが、いざ場を開いてみると、みなさん本当にたくさんのことを考えている。なかには帰り際にわざわざ私のところまできて、「実は、こういう対話がしたかったんです」と涙を流してくれることすらある。
だからもう、そこからはじめることにしたんです。「どんな人にも絶対に“自分の声”があって、みんながいろんな“悩み”や“問い”を持っている」って。問題なのは、彼らが悪いのではなく、それを伝え合える“場”がこの社会にないことなんです。

——今の社会を見渡すと、“場”がないどころか、むしろ「不用意なことを言うと一瞬で否定されてしまう」ような、自分の声を出すことへの恐怖心を抱いている人も多い気がしています。
だからこそ、せめて対話の場では、「この発言をしたから、あなたは一発アウトです。出て行ってください」というようなことはしたくないな、と思います。
私が今まさにそうしているように、人は、言葉を探りながらしゃべることもあれば、何かを誤魔化しながら語ることもあるじゃないですか。その「探っている途中」にふと漏れ出てしまった言葉が、世間的に「アウト」とされるものになってしまうことだってあるかもしれない。
もちろん、最低限の倫理観によって守られることもあります。ですが、はじめは「え?」と思うような歪な言葉であっても、じっくりきいてみたら分かち合えるきっかけが隠れていることもある。
対話の場だからこそ、自分とは異なる考え方に出会ったときに「それってどういうことですか?」と立ち止まってきけるし、話すからこそ分かち合える。そして、対話のプロセスのなかでお互いの感情が変わっていく可能性も秘めている。
ただ、その「過程」には、果てしなく時間がかかります。「結果」や「スピード」を重視する人にとっては、無駄なことだと感じるかもしれない。実際にビジネスの現場などでは、「対話によって収拾がつかなくなったらどうしよう」「早く決めなければならないのに、決まらなかったら困る」という声も耳にします。でも、私はこの「過程」こそが、人間にとって大事な取り組みだと思っています。
——まさに、私が冒頭で「あらかじめ用意した質問に答えてもらう方が早いけれど、それでは限界がある」と感じていたもどかしさと、同じような構造ですね。
記事をつくるときも、「もっと目の前にいるあなたの言葉をききたい」と思う一方で、「でも早く記事を完成させなければならない」と、つい結論を急いだり、言葉を誘導したりしそうになります。ビジネスにおいても「みんなで考えて時間をかけるくらいなら、命令してしまったほうが早い」と処理されてしまいがちです。
でも、人はたとえ「結論」そのものには納得できなかったとしても、「過程」に納得していれば受け入れられることってあると思うんです。むしろ「自分の意見を一度もきかれなかった」という事実が不満につながるのは、人間の尊厳に関わる問題なのだから当然ですよね。
「私はこの結論に心から賛成しているわけではない。でもあの場で私は自分の考えを伝えられたし、きいてもらえた」という“プロセスへの実感”があるだけで、あらゆる選択への納得感も変わるはずです。
それなのに、効率やスピードばかりを求められる今の社会において、この「果てしなく時間がかかるプロセス」は、ただの「コスト」として後回しにされてしまう。そうやって対話をコストとして切り捨て続けた結果、社会の根っこが腐っていき、さまざまな社会問題につながっている気がしてなりません。
そもそも、この世界における大切なことって、あらゆることが“面倒臭い”んですよ。対話も、民主主義も、目の前の人間を尊重することも、すべて莫大な労力がかかる。でも、面倒くさくても、やる。それが人間らしく生きるために、一番大事なことなんじゃないかな、と。

——組織では「会議」や「意見交換」がメインとされがちですが、腹を括って「対話」をすることが、役割を超えた「人間同士」の関わりにつながるのかもしれないですね。
哲学対話を通して、「ああ、この人には今の私には計り知れないくらいの経験や人生があるんだ」「今たまたま会社で出会って、その一断片を見せてくれているに過ぎないんだ」と知ること。それこそが、相手と「人間」として出会い直すことであり、社会の「非人間化」に抵抗することだと思っています。
もちろん、仕事のときには「スピード」や「決断力」が必要な場面もある。繰り返しますが、私はそれを否定するつもりはありませんし、そういう場ももちろん必要だと思っています。
その前提のもと、私は「そうじゃない場所を“哲学対話”で作りませんか?」と伝えたいな、と思っています。
——日常の業務から一度離れて、あえて「そうじゃない場所」を作り、対話をしてみる。そうした経験が、仕事という「人間」を「非人間化」しがちなことへの柔らかな抵抗になりそうですね。
たとえば、仕事では「この人いつも強気で嫌な感じだな」と思っていた人がいたとしても、対話の場で「なんか、死ぬのが怖くてさ」と漏らしていたら、「あ、この人にもそんな側面があったんだ」と知ることができるじゃないですか。
その状態で会議をやるのとやらないのとだと、受け取り方や伝え方が大きく変わると思っていて。一見遠回りに見える「対話」による時間が、結果的に仕事に活きることってあると思うんです。
『水中の哲学者たち』という本にも書いたのですが、「水中」というのは、陸の生き物である私たちにとってはある種の「非日常」ですよね。でも、「水中(=非日常)」での体験が「陸(=日常)」で蘇ることだってある。あるいは、水中での対話を重ねるうちに、いつの間にか陸の景色が変わっていくことだってある。私が哲学対話に感じている可能性は、そこにあります。
——「水中」という非日常の体験が、日常の「陸」のあり方を変えていく……。今日、永井さんとこうしてお話させていただいた時間そのものが、まさに私にとっての「水中」と「陸」の往復だったように感じます。素晴らしい対話の時間を、ありがとうございました。
取材・執筆:高城 つかさ
撮影:長野 竜成
撮影場所:WeWork 丸の内北口