プロ野球選手から起業家へ。何度もくじけそうになりながらも、自分の可能性に挑み続ける(田口紗帆さんインタビュー)

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女子プロ野球・夢の軌跡

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プロ野球選手から起業家へ。何度もくじけそうになりながらも、自分の可能性に挑み続ける(田口紗帆さんインタビュー)

「女子プロ野球・夢と軌跡」の第3回目は、女子プロ野球選手としてのキャリアを経て、現在は体育会学生のキャリア支援を行う起業家へーー常に難しい方を選びながら、自分の可能性に挑み続けてきた田口紗帆さんにご登場いただきます。その歩みの裏には、何度もくじけそうになりながらも、夢をあきらめない姿勢と、自分自身と向き合い続ける強さがありました。

今回は、野球と人生を通して得た経験や価値観、そして起業家としての挑戦について、率直に語っていただきました。

もっと上手になりたい。そのモチベーションが野球に打ち込む原動力に

野球との出会いについて教えてください。

小さな頃から、年齢の近いいとこたちと集まると野球やバスケットボール、サッカーなどをして遊んでいました。

特に野球は投げたり、打ったり、走ったりとやることが多いところに魅力を感じ、上手になりたいという気持ちが芽生えて。小学3年生の頃、母親に「野球チームに入りたい」とお願いをしたらしいです。

そんな幼い頃に、ご自分の意思で本格的に野球を始められたんですね。

野球をやっている女の子は、お兄ちゃんやお父さんの影響というケースが多いんですよね。お父さんが元々野球をやっていたとか、お兄ちゃんに誘われたとか。

でも私の場合は自分がやりたいと言って、別に野球が好きじゃなかった2つ下の弟を巻き込んで一緒に地元の少年野球チームに入ったんです。当時、弟は嫌々だったみたいですけど、その後は甲子園にも出場しましたし、社会人野球でも活躍したので、結果オーライです(笑)。

プレーする以外に、試合観戦にも興味はありましたか?

東京ドームなどで実際にプロ野球を観戦することもありましたし、当時は毎日のようにテレビ中継をやっていたので、よく見ていましたね。他のスポーツよりも見られる機会が多かったことも、野球をやってみたいという想いにつながったのかもしれません。

周囲にも野球をされている女の子はいたんでしょうか。

小学3年生から所属していた少年野球チームには、上級生に女子が何人かいました。当時はまだ女子のプロ野球もなかったので、将来のことまでは考えていませんでしたが、とにかく上手になりたい、もっと上のレベルにいきたいという気持ちは人一倍強くて。練習に打ち込んでいるうちに、高学年になると男子がたくさんいる中でもチームの中では副キャプテンで、
連合チームではキャプテンを任されるほどに上達しました。

それはすごい! そうやってどんどん野球にのめり込んでいかれたんですね。

両親ともにやりたいことを応援してくれるタイプだったので、チャレンジしたいことがあったら場を用意してもらえる環境でした。中学2年のときに大学生なども所属する硬式野球チームに入るという決断も、母親に後押しをしてもらったんです。

中学生と大学生とでは体格差が大きいと思いますが、不安はなかったですか?

中学1年の頃に所属していたチームがとても楽しかったので、この環境から違うところ、しかもすごくレベルの高いチームに行くのはもちろん不安でした。

ただ同時に、上手な選手と一緒にプレーができることへの楽しみもあったので、ドキドキが半分、ワクワクが半分という感じでしたね。

ハイレベルな環境に飛び込んでの野球生活はいかがでしたか?

最初の頃は、硬球に慣れなくて全然飛ばせなかったですし、当時は細身だったので先輩との体格差に悩んだりもしました。

チームには日本代表に選出されるようなトップレベルの先輩も多くて、それまでは「私は野球が上手なんだ」と自惚れていた部分もありましたが、このままでは先輩たちと肩を並べられないと思い直して野球との向き合い方を変えました。体を大きくするためにトレーニング方法や食事のメニューを変えたり、練習も先輩たちにアドバイスをもらいながら一緒にやったり。

そうして続けていくうちに「上手になったね」「こうしたらもっと良いよ」などと声をかけてもらえるようになったことは自信になりました。駒沢学園女子高校への進学も、チームの先輩に憧れて選択した部分が大きかったです。

進路に悩みながらも、小学生からの夢であったプロの道へ

高校生は進路選択を迫られる時期ですが、野球を続けることに迷いはありましたか?

まさに高校3年生のときに日本女子プロ野球機構が設立されると発表されたんです。それまでは、卒業後は大学に進学して教員免許をとって先生になるという目標を立てていたので、まずはその進路で悩みましたね。

また野球を続けるにしてもプロに挑戦するか、硬式野球部のある大学に進学するかという選択肢もありました。

当時は尚美学園大学の女子硬式野球部が非常に強く、ありがたいことにお声がけもいただいていたんですけど、自分は元々強いチームに行くよりも強いチームを倒す方がワクワクするなと思って、日本体育大学に進学して教員免許を取るという進路を選びました。

日本体育大学には軟式野球部しかなかったので、自分で硬式のチームを作ろうと思ったこともありましたが、グラウンドの利用許諾の取得や、監督探しといった難題が多く、在学中は外のクラブチームで野球を続けていました。

そうなんですね。お話をお伺いしていると、田口さんはご自身でグイグイと道を切り拓いている印象を受けます。

元々そういう性格ではあったんですが、大学生の頃にやっていたアルバイト先の店長の影響もあるかもしれません。めちゃくちゃ厳しい人で、「辞めたい」と言っても辞めさせてくれないくらいの(笑)。

その店長がよく「選択で迷う場合は大変な方を選んだ方がうまくいく」と言っていたんです。大変なことがあっても、やり抜いた人にしか見えない景色があるということを、改めて教えてもらった気持ちになりました。

毎日のように厳しいことを言われて泣いてもいましたが(笑)、お店を辞めなかったことは自信になりましたし、そこで出会った方たちとのご縁は今でも続いていますし、この考え方は今でも大切にしています。

野球好きが集まるお店だったので、元球団代表の片桐さん(日本女子プロ野球機構 片桐諭元代表)は私のことはプロになる前から「あのお店のアルバイト」として知ってくださっていたみたいです。

大学を卒業したらプロに入団するということは、いつぐらいから決められていたのでしょうか。

周囲が就活とかはじめた時期だったので、大学3年か4年でしたね。プロに挑戦するかどうか悩んだ時期もあったんですけど、アルバイト先の店長の言葉を思い出して、自分には難しい道でも挑戦してみようという気持ちでトライアウトを受けました。

受けるからには一番目立ってやろうと思って(笑)、誰よりも大きな声を出したり、元気に明るくプレーしたりと、積極的な姿勢で臨みました。

トライアウトに合格したときは夢が叶って本当に感慨深かったですね。小学3年のときだったか、当時まだ女子のプロ野球はなかったのに文集に「私はプロ野球選手になって、一番ショートで活躍します」と具体的に書いていたんです。それぐらい小さな頃からプロ野球への憧れがありましたから。

アルバイト先の店長も喜んでくれて、常連のお客さんと一緒に試合の応援にも来てくれたんですよ。

プロ人生を支えた「野球ノート」

プロとしての初打席の相手ピッチャーは宮原臣佳さんだったんですよね。この連載の第1回目にご登場いただいていました。

そうなんです。宮原さんのインタビューも読みましたよ!

宮原さんは1つ年上なので、高校生の頃から球速の速いすごいピッチャーだと知っていましたが、初対決では「自分が一番すごい。絶対に負けない」という強い気持ちでバッターボックスに立ちました。これぐらい強気でいないと、プロではやっていけないと自分に言い聞かせていましたね。

プロ野球選手として、一番嬉しかった瞬間はどんなときでしたか?

ファンの方の応援ですね。女子の大会って観客がいることってまずなかったんですよ。高校もクラブチームも基本的にいるのは保護者だったので、何百人、何千人の前でプレーをするというのがすごく不思議な感覚で嬉しかったですね。自分のプレーひとつでワーッと盛り上がってもらうのは、ありがたい経験でした。

試合前後にはファンの方と直接お話をする機会もあり、そこで「田口さんのプレーを見ると仕事を頑張れる」や「勇気をもらえた」とか言っていただけたときは、誰かの「頑張ろう」っていう気持ちの後押しをできる存在になれたんだなと嬉しさを噛み締めていました。

特に小さい女の子から「田口さんを見て野球をはじめたいと思いました」と言ってくれたことは印象に残っています。

逆に、辛かった瞬間ってありましたか?

たくさんありましたよ。1年目から早くも辞めたいと思っていたくらいです。

入団当時は「新人賞を獲れるぐらいの活躍をするぞ」と意気込んでいて、1ヶ月ぐらいは順調だったのですが、途中からエラーや打撃不審が続いて。

自分が出場したら負けてしまうんじゃないかとかチームの足を引っ張っているんじゃないかとか悪い方向にばかり気持ちが向いてしまって、打席に立つのが怖くなるほどでした。

そういうとき、どのようにモチベーションを上げられたのでしょうか。

このままでは終わりたくない、私はまだこんなもんじゃないぞという闘争心が大きかったと思います。

あとはやっぱりこれまでに出会って、プロになることを応援してくれた親や周囲の期待に応えたいという気持ちですね。すぐに辞めてしまったら誰にも恩返しができないですし、かっこ悪いなと考えていました。

ちょうどその頃、大学野球の選手をしていた弟から、メンタルを安定させるために「野球ノート」を書いていると教えてもらいました。これまでも反省点などをノートに書くことはありましたが、3ページぐらい書いて放置ということが続いていました。でも弟に教えてもらった方法だと、毎日書けるようになったんです。

「野球ノート」には何を書かれていたんですか?

1日を振り返って良かったところを「心」「技」「体」の項目に分けて書き出していました。

たとえば「技」だったら、その日にヒットを打てていなくても「初球から振りにいけた」とか、結果ではなく過程の部分にも目を向けてポジティブな内容で埋めていったんです。

失敗すると、どうしてもダメだった部分に目が向いてしまいがちですが、それだとノートを書くのも読み返すのも辛くなりますよね。ほんの少しでも良かったところを見つけると、書いているうちに気持ちも上向きになるんだなと思うようになりました。

また、次の日に達成したい目標も同時に書くようにしていました。そうすると、達成したときに「今日は何日前にやりたいと思っていたことができた」というように、成長している感覚を得ることができたんです。

「守備を頑張る」といった大雑把な書き方ではなく、「今日は一、二塁間を抜かせないようにする」と具体的に書くことで、今やるべきことを整理する癖がついて、試合でも良い結果が出るようになりました。

ポジティブな部分と次の目標を文字にするのは、モチベーションが上がりそうですね。年度別の打撃成績を拝見していると、確かに1年目以降は順調に記録を伸ばしているように感じました。

「ホームラン王になる」という大きな目標も、小さな目標を達成していくことで到達できるんだなと感じました。2019年に最多本塁打のタイトルをいただきましたが、これも「野球ノート」を書いていたからだと思っています。

その2019年で引退を発表されましたが、どのようなきっかけだったのでしょうか。

2014年の入団時に、まず5年はやろうと決めていました。2018年になって、感覚的にはあと2、3年ぐらいは体が動くだろうし、できるなという思いはありましたが、プロの場でできることはやりきったという感覚もあり、あと1年で引退しようと考えました。

今振り返っても、プロ野球選手として活動した6年間は私的に最高の時間でしたので、悔いはないですね。

引退後はどのようなことをしたいと考えられていたのですか?

野球とは別の世界に行って起業して、女子野球を別の角度から盛り上げたいと思っていました。

指導者にならないかと誘ってくださったところもあったのですが、自分で起業したいという思いが強くて。

とは言え何をやりたいのか決まっておらず、起業のための知識もなかったので、まずは社会経験を積もうと考え、アスリートのセカンドキャリアをサポートする企業に就職しました。

これからは外側から女子野球を応援しようと考えていたのですが、この仕事がきっかけで埼玉西武ライオンズ・レディースとのご縁が生まれ、新谷監督(新谷博)からコーチの打診を受けたんです。仕事があるからコーチは引き受けられないですと断っていたんですけど、月に1回でも来れるときに来てほしいと言われたことがありがたくて、お話をお受けすることにしました。

少しずつ携わらせていただくようになって、2024年には監督に就任することになりました。

外から野球を応援するつもりだったのが、監督になるなんて面白いご縁ですね。

監督に就任してすぐ、何のために野球をやるのかということを選手たちと一緒にディスカッションしました。そうすると「勝つためにやりたい」という声が多くて。

先ほどの「野球ノート」と同じような考え方で、それでは勝つために何をやれば良いのか、どういう練習に取り組めば良いのかというのを考えていきました。
 
選手たちにはよく「楽しむことを大切にしてほしい」と伝えていました。楽しむというのはふざけるということではなくて、本気でやることの楽しさ、勝ったときの楽しさを味わうために頑張ろうという意味です。この思いは今でも大切にしていますね。

夢は叶える過程こそ楽しみたい

監督に就任された年に、ご自身の会社「株式会社Spica Link」を起業されたんですか?

監督に就任したのと、Spica Linkを立ち上げたのはまったく同じタイミングでした。

やってみると、人を動かしたり、メンバーの気持ちを高めたりとリーダーシップを発揮する機会が多い点が、監督も経営者も同じだと気付きました。

監督としてチームを日本一に導けなかったことについては、もっとリーダーシップを発揮していれば結果が変わっていたのかなと思うときはありますが、今は自分自身がもっと成長して、野球界に恩返しができれば良いなという風に考えています。

田口さんはSpica Linkの取締役なんですね。

一緒に起業した代表取締役は、高校時代の女子野球部の同級生なんです。同じクラス、同じ部活、行き帰りも一緒、出席番号も19と20でして(笑)。他のメンバーも野球やソフトボール、ラクロスなどスポーツをやっていたんですよ。

Spica Linkでは、体育会学生を対象に、キャリア支援や就活支援、企業様の採用のコンサルティングなどを行っています。特徴的なのは、ただの就職サポートにとどまらず、「現役時代からキャリア形成を考える」アプローチをしている体育会総合マネジメント会社というところです。

これまで「スポーツ以外にやりたいことがわからない」や「これまでスポーツしかやってこなかった」などとと、スポーツ経験をマイナスに捉えてしまう学生に多く出会ってきました。

そういった方々に、社会に出てからもスポーツをやってきたことは活かせるんだということを伝えていきたいです。

また、そういった人たちが社会で活躍することは、スポーツの価値を上げることにもつながるとも思っています。

田口さんは若い世代の夢を後押しする存在でもあると思いますが、ご自身はどのような夢をお持ちなのでしょうか。

社会に出ることを楽しめる体育会の学生たちを増やしたいというのは大きな夢ですね。

そのためにも、Spica Linkをもっと大きくしていきたいです。今は7人ですが、5年後には100人ぐらいのメンバーがいて、大阪と東北にも支社を増やしたいですね。

その全員が楽しく働いていて、また新たに学生さんたちに働くことの楽しさを伝えられたら、どんどんハッピーな輪が広がっていくと思います。メンバーには日本一楽しい会社と思ってもらえたら嬉しいですね。

最後に、夢を叶える途中で立ち止まったり迷ったりしてしまうとき、田口さんはどのように乗り越えられたか教えてください。

大学時代のアルバイト先の店長に言われた「2択は難しい方を選ぶ」と、監督時代に選手に言っていた「楽しむ」を心がけています。

すべてがスムーズに行くのも良いですが、難しい方を選ぶことで予想もつかないことが起きたり、失敗してしまったりも楽しいと思うんです。

マンガの「ONE PIECE」も、一話でいきなり海賊王になったらつまらないじゃないですか(笑)。挑戦する過程を楽しむ気持ちが、夢に近づく原動力になると思います。

田口さん、貴重なお話をありがとうございました!

田口紗帆(たぐちさほ)

1991年神奈川県出身。小学3年生より野球をはじめ、2014年にプロデビュー。一塁手として2018年、2019年にゴールデングラブ賞、2019年には最多本塁打のタイトル受賞などの活躍を見せる。2019年の引退後、一般企業に就職。2020年に埼玉西武ライオンズ・レディースのコーチに、2024年には第3代監督に就任。

現在は、自身が企業した株式会社Spica Linkの取締役として、体育会学生のキャリアサポートに従事している。

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