チャレンジャー応援メディア「DEKIRU!」は、「やればできる! わたしにもできる! あなたにもできる!」という挑戦する人や企業の勇気や情熱を伝えるメディアです。「できることからはじめよう」という信念のもと、様々な分野でチャレンジし続ける人々を応援しています。
今回は、1人の作曲家と出会いました。
彼は「“音“が持つ可能性で、ビジネスを変えられないか」という考えのもと、様々なことに挑戦をしていました。
その話を聞いた私たちは「これは面白いのでは……!?」と考え、この連載「音の挑戦者たち」を開始することにしました!
第1回は、株式会社Go2E(ゴートゥーイー)代表取締役の山田智和氏にインタビュー。
音楽の道に進むきっかけ、作曲家としてのキャリア、そして現在の「音楽×ビジネス」の可能性まで、たっぷりとお話を伺いました。
プロフィール
山田 智和(作曲家・株式会社Go2E代表取締役)
香川県出身、法政大学文学部英文学科卒業。中学2年生の時に、教師と音楽家の夢を抱く。大学卒業後、英語科教員免許を取得し大手学習塾3社の塾講師や、私立高校の非常勤講師、家庭教師で高校・大学受験指導を行いながら音楽家になるべくバンド活動を続け、2008年、トップ声優である小野大輔の1stシングル「雨音」で作曲家デビュー。
以降、AKB48、乃木坂46、SKE48、NMB48、ラストアイドルなどのアイドルグループをはじめ、鈴木雅之、白石麻衣、春奈るな、井口裕香、飯塚雅弓、戸松遥、悠木碧などのアーティスト、アイドルマスター、ラブライブなどの有名アニメへの楽曲提供を行う。2024年10月、株式会社Go2Eの代表取締役に就任。エンターテイメント業界への楽曲提供のほか、企業や自治体への「音」、「音楽」、「映像」を用いた社員教育やプロモーションの支援も行う。
中学2年生、LINDBERGのコンサートで受けた衝撃
今日は、よろしくお願いします!
早速なんですが、山田さんはどんなきっかけで音楽を始めることになったんですか?
中学2年生のとき、友達と一緒にLINDBERG(リンドバーグ)のコンサートに行ったんです。人生で初めてのコンサートだったんですが、「何これ!?」って思うほど感動して。
「俺もこれになりたい!」と思ったのが一番のきっかけですね。
それまでは音楽にまったく興味がなかったんですか?
そうですね。家にギターがあったとか、そういうこともなかったです。
そんななか、たまたま従兄がバンドをやっていて、「もう辞めるからこのベースあげる」って。
それがLINDBERGの曲を弾き始めるきっかけになって。演奏したり自分でバンドをやるのも面白いと思うようになりました。
ベーシストからスタートなんですね。地元の香川で、中学生からバンド活動をされていたんですか?
そうですね。中学の友達とバンドを組んでいました。他の人の曲をやるコピーバンドです。
地元の商店街にあった、ちょっとやさぐれた感じのバーみたいな場所で演奏させてもらったりしていました。
中学生ながら、なかなかのチャレンジャーでしたね。
高校の文化祭で初めての作詞作曲

「作詞作曲」を始めたきっかけは、どんなものだったんですか?
高校2年生のときに文化祭に出ることになって。そこで「オリジナル曲を作って演奏してみたい」と思ったんです。初めて作詞作曲にチャレンジしました。
発表したら友達みんなが感動してくれて、すごく嬉しかったですね。そこが「勘違いの始まり」でした(笑)。「いけるかも」って思っちゃって。
そこから音楽の道を本格的に目指そうと?
そうですね。でも実は、部活も勉強も普通にやっていました。テニス部で一生懸命に部活もやっていましたし、勉強はやらないぞ!みたいなことでもなく。
でも14歳くらいの時から「音楽をやるなら、東京に出ないと始まらない」と思っていたので、大学受験で東京に行こうと決めていました。親が両方公務員だったので、「音楽やりたい」と直接言って認めてもらうのは無理だろうと思って。
上京と二足のわらじの日々

大学進学を機に上京されたんですね。
はい! 東京の大学に合格できたときは、「やっと自分の夢が始まるぞ」と思いました。
大学では希望に胸を膨らませて音楽サークルに入ったんですが、サークルのみんなは「楽しくやればいい」という感じで……「音楽のプロになりたい!」と考えていた自分の熱量とはちょっと合わなくて。
そこで「外の世界も知りたい」と思って。楽器屋さんに貼ってあるメンバー募集の張り紙を見て連絡しました。1995年頃なので、チラシの下に電話番号が書いてあって、それをちぎって持って帰るタイプのやつですね。
そうやって、同じ志を持ったバンドに入れてもらいました。そのバンドは皆さん年上の社会人の方々でしたね。

大学卒業後はどうされたんですか?
在学中に教員免許は取っていたんですが、やっぱり「やりたいことをやろう」と思って音楽の道に進みました。でも音楽だけでは生活できなかったので、塾講師をしながらバンド活動を続けたんです。
その生活が8〜10年ほど続きました。
作曲家への転身と仕事の広がり
作曲家としてのデビュー作となった小野大輔「雨音」
そこから、どのような経緯で「作曲家」に?
「このままでは厳しい……」と思い始めたのが28歳くらいでした。
当時、プロアーティストのサポートメンバーとして一緒に活動していたのですが、その時のメンバーが1人、何かのご縁から他者への楽曲提供を試み始めたんです。
すると、彼の作った曲がアイドルグループ“嵐“に採用されたりして、いきなり売れ始めて!
そんななか、彼から「山田くんも作曲家という道もあるからやってみたら?」と言われて。
へぇ! では人の誘いで始めたんですね。
はい。それで40社くらいの作曲家事務所にデモテープを送りました。
その中で、唯一、1社だけが返事をくれました。
それが今の会社の前身となる事務所でした。
作曲家としての最初の時期はどうでしたか?
返事をもらった時は「やった! これで作曲家への道が開かれる!」と思っていたのですが、最初の年は採用曲ゼロでした。
ゼロ!?
はい。月に10曲以上作って出していましたが、何も決まらなくて。
どうすればいいのか全くわからずに、とにかく曲を作っていました。今思っても、かなり頑張った時期だったと思います。
そして1年ほどして、ようやく「山田くんの曲、採用されることになったよ」と連絡があったんです!
妻と抱き合って喜びました。
その作曲家としてのデビュー作が、声優の小野大輔さんによるデビュー・シングル「雨音」です。
これがきっかけになって、アニメ、声優関連の仕事を数多くいただくようになりました。
HRという博多発のグループを手始めに、アイドルの楽曲も少しずつ手掛けるようになっていきました。
作曲家としてのキャリアのなかで、特に達成感を得られた作品はありますか?
乃木坂46の「自由の彼方」ですね。
誰もが知っているグループの楽曲を手掛けられたということで、自分にとっても大きな意味がありました。
この楽曲はレコード会社から打診があったコンペに参加して決まったもので、乃木坂46と直接の接点があったわけではなかったんですが、選んでいただけて。
秋元康さんの作った詞が、自分の音楽に乗って歌われることに感動しました。
そこから、秋元康さんが手掛けるグループに関わる事務所ともやり取りをするようになり、乃木坂46やAKB48グループの楽曲にも数多く携わることになります。
人生の転機と会社代表への道
作曲を手掛けた乃木坂46「自由の彼方」
そのような作曲家生活を経て今の会社の代表になられた、というのは大きな転身だと思います。どのような経緯だったんですか?
作曲家として順調に仕事をしてはいたのですが、作曲家は常に「コンペ」との戦いです。
自分が心を込めた曲が、毎回選ばれるわけじゃない。結構心が削られるし、「音楽」という正解がない世界で音を生み出し続けることはそれなりの精神力が必要でした。
それに、ずっと塾の講師も続けていて、毎日のように生徒さんたちの相談にも乗っていて、結構重い相談をしてくれる子も多くて。
そのようなプレッシャーから逃れるためにお酒に頼るようになってしまい、実はアルコール依存症になってしまったんです。
そして、最終的には急性膵炎になって病院に運ばれる事態に。本当に死んでしまってもおかしくなかったような状態だったらしいんです。
しかし、本当にありがたいことに、先生のおかげで生き延び、家族や友人たちのおかげで今ではお酒も辞められました。
そこから、「この命は拾ったようなものだ」「これからの人生は誰かの役に立つことをしたい」と思うようになりました。考え方、価値観が180度変わった、と思っています。
ちょうどその頃、所属していた作曲家事務所の代表者が引退することになったんです。
素晴らしいものを創り、残してきた、自分を拾ってくれた人が、一線を去る。そのままだと、それらが無くなってしまう。
そのような状況になった時、自然と「もしよかったら、自分が継いでもいいですか」と、会社を引き継ぐことにしたんです。
同時に、周りのクリエイターたちにも安定的に仕事を提供できる仕組みを作りたいという思いもありました。
才能と情熱はあるのに、お金や環境のせいで音楽を続けることができなかった人をたくさん見てきたので、自分がそこを支えることができるかもしれない、とも考えました。
そして、2024年10月に新会社Go2Eとして再スタートしました。
「サウンド・マーケティング」「花鈴のサウンド」プロジェクトとの出会い
人生におけるものすごく大きな転機だったんですね。
作曲家事務所の代表になってからは、どのような変化がありましたか?
それまでのコンペ作家は、「部屋にこもってひたすら曲を書いていろ」というスタイルでした。でも「外に出ていろんな人と会いたい、音楽業界以外の方々の価値観にも触れたい」と思ったんです。
そんななか、とあるコンサートで知り合った方を通じて株式会社わかさ生活という会社の社長を紹介していただきました。
すごくクリエイティブな方で、漫画が好きで自分でシナリオを書いて作品を作っちゃったり。
さらに、災害地への支援、児童養護施設への支援、盲導犬への支援、女子野球の普及、など色々な人に手を差し伸べるような活動を、時には個人のお金でやっている、という人だと知って「この人みたいな経営者になりたい」と思ったんです。
その出会いから「花鈴のサウンド」プロジェクトが始まったんですね。
そうなんです。社長が「野球が大好きな女の子が、野球を続けることができる世界がない」「なら、そのような世界を作り出せばいい」と、女子野球の世界で色々なことをしていると聞きまして。
その中に女子野球を題材にした漫画『花鈴のマウンド』という作品があって。それを「歌で広げる」という企画が生まれました。
アニメや声優さんの曲はたくさん作ってきましたが、「漫画に曲を作る」というアプローチが、すごい新しいと思ったんです。普通は逆で、アニメが先にあってそのオープニングテーマをつけるという流れですからね。
山田さんにとって、このプロジェクトとの出会いが「企業×音楽」の可能性を探る一歩となりました。
次回後編では、「花鈴のサウンド」プロジェクトの展開や、音楽をビジネスに活かす可能性について、さらに詳しくお伝えします。