輝くマウンドに魅せられて。夢中で駆け抜けた野球人生と、次世代へつなぐ夢(磯崎由加里さんインタビュー)

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女子野球・夢の軌跡

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輝くマウンドに魅せられて。夢中で駆け抜けた野球人生と、次世代へつなぐ夢(磯崎由加里さんインタビュー)

「女子プロ野球・夢と軌跡」の第4回目は、3歳で野球と出会い、輝いて見えたマウンドに憧れてピッチャー一筋の道を歩んだ磯崎由加里さん。家族の支えを力に、女子野球の名門・埼玉栄高校へ進学し 、大学時代には日本代表としてワールドカップMVPに輝くなど、輝かしい実績を重ねてきました。プロ転向後は、肘の故障という大きな壁を乗り越え、見事な復活劇でチームを優勝に導きました。

現在は一般企業で働きつつ、指導者としてのキャリアもスタートさせたという磯崎さんに、野球との出会いからプロでの活躍、今の野球との関わり方についてお伺いしました。

「輝いて見えたマウンド」が、すべての始まりだった

まずは、磯崎さんと野球との出会いについてお伺いできますでしょうか。

はい。一番は、父の草野球チームがきっかけです。3歳くらいの頃から家族で一緒に応援に行って、チームの方に遊んでもらう中でキャッチボールなどをしたのがはじまりだったと記憶しています。兄と父がキャッチボールをしているのをいつも見ていて、「一緒にやりたいな」と思うようになりました。

そこから本格的に野球をはじめられたんですね。

小学1年生になるタイミングで、兄が少年野球チームに入る時に「私もやりたい」と母に伝えました。当時はチームに女の子がいなくて、入れてもらえるか心配だったのですが、母が理事長さんに電話したところ快く受け入れてくださったんです。

周囲に女の子がいない環境で、戸惑いはありませんでしたか?

小学生になったばかりの頃は、ただ野球がやりたいという気持ちが強くて、あまり気にしていませんでした。でも、高学年になるにつれて体力差が出てきたり、男子も思春期に入ったりして、「女の子がいたらいいな」と思うようにはなりましたね。ちょうどそのタイミングで同い年の女の子が1人と、後輩が2人入ってきてくれて、すごく嬉しかったことを覚えています。

ポジションは当初からピッチャーだったのですか?

 最初はセカンドでした。ある時「どこを守りたい?」と聞かれて、改めてグラウンドを見渡したんです。そうしたら、マウンドだけが輝いて見えて、「あそこは特別な場所だ」と感じました。それでピッチャーを希望して、2年生くらいから本格的に投げるようになりました。

中学でも野球を続けられたとのことですが、小学生と比べると男子のチームメイトとの体力差が開いてくるように感じますが、実際のところはどうだったのでしょうか。

地元の中学の野球部では女子選手は私一人でしたね。ただ、小学生の頃から男子との体力差を埋めるために、小学5年生から母の勧めで兄と一緒にトレーニングジムに通っていました。野球を続けるためには体力をつけることはすごく大事だなと感じていたので、そこで周囲との差はカバーできていたんだと思います。

お母様の存在が非常に大きかったんですね。

本当にそう思います。ジムでのトレーニングの提案をしてくれたのも母でしたし、中学2年生の時に日本代表のセレクションがあることを見つけてきてくれたのも母でした。母は陸上の経験者で、走り方を指導してくれたり、練習用のネットを作ってバッティング練習に付き合ってくれたり、本当に熱心にサポートしてくれました。

初めてのセレクションはどういう印象でしたか?

男子と同じレベルで野球をやってきているという自負があったのですが、セレクションの場で初めて女子野球のレベルの高さを知って、「硬式野球を始めよう」と決意したくらいです。残念ながら最初のセレクションでは最終試験で落ちてしまったんですけど、今は侍ジャパン女子代表監督をやっている中島梨紗さんに母が事前に連絡をしていて、ご挨拶をできたことは嬉しかったですね。

高校は強豪校である埼玉栄高校に進学されていますが、進路に悩まれたりはしなかったんですか?

当初は、地元から一番近い強豪校ということで鹿児島の神村学園を考えていました。ですが、母が女子の大会で埼玉栄が優勝しているのを見て、「ここもいいんじゃない?」と勧めてくれたのが大きかったんです。寮がある学校となると選択肢が限られていたのですが、最終的な決め手は試合に出るチャンスの多さでした。埼玉栄は3チーム制をとっていて、1年生からでも試合に出場できる可能性があると聞いたんです。日本代表を目指す上で、試合経験をたくさん積めるのはすごく有利だと思い、進学を決めました。思い返すと、私の野球人生の道筋は、いつも母が作ってくれました。

大学は尚美学園大学に進学されていますが、日本女子プロ野球機構が創設されたのがちょうど同じタイミングでした。当時はプロ入りか大学進学かはどのように決められたんですか?

女子プロ野球創設の話を聞いたのは、ちょうど高校3年生の時でした。チャレンジするか正直迷って野球部の顧問の先生や家族、周囲にも相談しました。そうする中で、尚美学園大学の監督がピッチャー出身で、指導を受けたらピッチング技術をさらに伸ばせるんじゃないかと考えるようになり、プロ入りはそれからでも遅くないと思い、大学への進学を決めました。自分のピッチングスタイルが確立することができたので、振り返ってみると、大学に進学して良かったと思っています。すでに大学からは推薦をいただいていましたし、ユニフォームも準備が進んでいたりで断りづらかったということもありましたけど(笑)。

ワールドカップへの初招集は2010年。大学生の時だったんですよね。

そうですね。
初めてはセレクションを通過したのではなく、追加招集というかたちでした。当時そこまで女子野球が強い学校も多くなく、また大学の監督がピッチングコーチとして日本代表に携わっていたこともあって、大学のグラウンドで日本代表の選手と私たちのチームと対戦する機会がよくあったんです。大学の監督からは、その練習試合の投球が日本代表の監督やコーチの目に止まれば代表に選ばれるかもしれないから、しっかり自分の持ち味を出すように言われましたが、その頃は若かったと言いますか(笑)、日本代表になれるなれないよりも、強い相手に勝ちたいという思いの方が強くて。確かその試合では勝って、あの日本代表相手にここまで投げられたという満足感が強かったことを覚えています。その結果、追加で選ばれたというかたちです。

初めてのワールドカップはいかがでしたか?

追加招集でしたので、周囲からは「気を抜くな」と言われましたし、自分自身もここで落ちたら意味がないと考えていました。スタートが出遅れたからこそ、危機感を持って臨まないといけないと気合いを入れ、死に物ぐるいで周囲についていった結果が実ってくれたんだと思います。

2012年のワールドカップではMVPとベストナインを獲得されるなど、大活躍でした。

あの年は本当に調子が良かったですね。全日本の高校、大学、社会人の1位を決める大会でもいいピッチングができましたし、完全試合も2回達成しました。ワールドカップで対戦する海外の選手は体格差が大きく、どういうボールを投げたらアウトを取れるのかは監督に相談しながら研究を重ねて、それが結実した年でもありました。準決勝と決勝を連投で投げ切れたことも、大きな自信になりましたね。

私は速球派ではないので、自分の持ち味を活かせる勝負球は何だろうと考えると、カーブだったんですよね。と言うのも、2010年の大会ではワールドカップの決勝前日には監督から「もっと緩いカーブは投げられないか」とアドバイスをもらい、それがうまくハマったんです。力の勝負ではなく、緩急を使って打ち取るスタイルをすでに確立できていたので、2012年もそれを決め球として投げたかたちです。

そんな大学時代を経て、1年間のクラブチーム所属を経てプロ入りされています。どのような経緯があったのでしょうか。

実は大学卒業の年に、プロからスカウトしてもらっていたんです。ただ先ほども言いましたが、当時はプロ野球選手になるよりも「自分よりも強いプロの選手を倒したい」という気持ちの方が強かったので、クラブチームに所属することにしました。しかし実際に入ってみると、野球だけをやっているわけではないので、これまでと比べると練習量が足りないと感じ、レベルの高い環境で自分を磨きたいという思いが強くなりました。そんな時、後輩の出口(彩香)選手がプロに行くことを聞き、同じタイミングでセレクションを受けることにしたんです。

最大の挫折が、最高の成長へ。プロとして見つけた「本当の強さ」

プロの世界に入り、野球に対する意識の変化はありましたか?

やはり、お金を払って見に来てくださるファンの方々の存在が一番大きかったです。自分のためだけでなく、応援してくれる方々の期待に応える責任感を強く感じました。調子が悪い時でも、それを表に出さず、いかに最少失点で抑えるかが大事だと学びましたね。

観戦に来てくれた方が次の試合も来たい、応援したいと思ってもらえるようなプレーを心がけていました。

ご家族の反応はいかがでしたか? 野球をはじめたきっかけがお父様だったので、すごく喜んでくれたんじゃないでしょうか。

そうですね。実家が山口なので、さすがに全試合というわけにはいきませんでしたが、京都での試合には両親が応援に来てくれましたし、私が活躍した動画を見て喜んでくれた姿を見て、プロに入って良かったなと感じました。

ただ父はあまり感情を表に出すタイプではないので、直接何かを言われたことはなかったですね。母から聞いた話だと、ちょっとしか映っていない動画をじっくり見ていたり、雑誌とかも買ってくれたりしていたらしいので(笑)、不器用なりに応援してくれていたんだと思います。

プロでは肘の故障も経験されています。大変なことも多かったと思いますが、思い出深いエピソードはありますか?

やっぱりその故障時ですね。肘に違和感を覚えたのが、私の誕生日の朝だったんです。服を着替えていた時に突然肘が上がらなくなったんですけど、ちょっと筋がおかしくなったのかなと思い、その日はそのまま東京ドームでのイベントに出場しました。時間が経っても全然治らないので、指導者の方から病院に行くように言われて受診をしたら、手術をした方が良いと言われたんです。最初は手術に抵抗があって、そのシーズンは痛み止めを打ちながら投げることにしました。自分の中では、手術をすると今までのように投げられなくなるのではという不安の方が大きく、そうなるくらいなら野球をやめようと思っていたほどです。

でもある時、たまたまバックネット裏に球速が表示される球場で試合があって、思い切って投げたボールが90km/hくらいと遅くて、今の全力だとこれぐらいしかスピードを出せないんだとショックを受けました。今までは投げることが楽しくてやってきたのに、キャッチボールすらしたくないくらい落ち込み、何のために野球をやっているんだろうと、投げること自体が怖くなってしまいました。このままでは野球が嫌いになってしまうと思い、手術を決断しました。

そうして決断した手術ですが、1年ほどで見事に復活を果たされましたね。

手術を経験した先輩や後輩に話を聞くと、復帰したシーズンに結果を出すのは難しいと声を揃えて言われたんです。そうすると負けず嫌いが出てきまして(笑)、みんなができていないんだったら、私がやろうと思いました。その結果、自己最高の成績を残し、チームも下克上で優勝することができました。

負けず嫌いの部分が功を奏したんですね。

本当にそうです(笑)。
復帰戦当日は実は登板予定がなくて、ピッチングで100球近くを投げ終えベンチで応援していました。すると途中で試合展開が変わって、投げられるピッチャーが次の日の先発ピッチャーと私しかいなくなってしまい、「満塁になったら次行くよ」と言われ、急遽マウンドに上がったんです。投球練習でもストライクが全然入らなかったのに、その場面でマウンドに上がることになり、もう緊張でどうにかなりそうでしたが、不思議なことに本番ではストライクがどんどん入って、復帰戦で勝つことができました。

本格的に復帰してからは、優勝の決まる「女王決定戦」も思い出深いですね。相手チームにはアドバンテージが1ついていたので、2戦勝てば優勝という状況で、私たちにとっては負けたら終わりという戦いでした。しかも当日は「本当に試合ができるのかな?」というほどの土砂降りでしたね。

その第1戦目に先発させていただき、大雨の中負けられない戦いをみんなで勝ち抜いて、下剋上で優勝できたことは今でも忘れられません。

大雨で最悪のコンディションだったのに、怪我から復帰したばかりの磯崎さんが抑えてチーム優勝。めちゃくちゃドラマチックです!

今じゃ考えられないですね(笑)。たぶん緊張してずっと足が震えていたと思いますよ。この経験から、勝負はボールの速さやどこに投げるかということも大事ですが、勝ちたいという気持ちを強く持つことで左右されるんだなと学びました。怪我をしたことで自分の弱さと向き合え、精神的にも強くなれた。選手としても人としても、一回り大きくなれた1年でした。

プロ引退後も、野球を大好きな気持ちは変わらない

その後、プロ野球を引退されますが、どのような決断があったのでしょうか。

日本女子プロ野球機構の方針が変わって、それまで毎日練習できていたのが、社員として働くか、プロとして野球だけでお給料をいただくかという2通りの選択肢があり、それぞれ条件が異なりました。私は毎日練習をしないとピッチャーとして最高のパフォーマンスを続けるのは難しいと感じ、プロからの引退を決めました。

2020年からはアマチュア界に復帰されていますが、野球自体は続けたいという思いだったのでしょうか。

そうですね。アマチュアで野球を続けることにしたのは、私より前のタイミングで引退していた川端友紀さんと楢岡美和さんからも誘われたことも決め手でした。2人とは引退後もやりとりをしていて、また一緒にプレーしたいなと思っていたので、プロは引退したけどまたやろうと思いました。

現在は一般企業でお仕事をされながら、指導者としても活動されているそうですね。

はい。今年創部した浦和学院高校の女子硬式野球部で、月に1、2回ほど指導に携わっています。今まで野球一筋でやってきたので、その経験を活かして、女子野球の普及や次の世代の選手たちのために何か貢献できたらと思っています・ここから野球の楽しさがもっと多くの人に伝われば嬉しいですね。

これまでの野球人生を振り返って、モチベーションを保つ秘訣は何だったと思われますか。

常に目標を持つことだと思います。日本代表、プロ野球選手、そして今は指導者として、常に「こうなりたい」という目標がありました。大きな目標だけでなく、小さな目標を一つずつクリアしていく達成感が、次のモチベーションにつながっていましたね。

磯崎さん、ありがとうございました!

磯崎由加里(いそざきゆかり)

1991年山口県出身。幼少期より野球をはじめ、埼玉栄高校、尚美学園大学と名門校でプレー。2010年、2012年、2014年にはIBAF女子野球ワールドカップのメンバーに選出。2012年は先発投手部門のベストナインおよび大会MVPに輝く。2015年にプロデビューし、肘の手術から復帰した2017年には最多勝利と最高勝率を獲得。現在は一般企業で働きながら、浦和学院高校の女子硬式野球部での指導や、SNSでコスメやアパレルを紹介するなど、精力的に活動している。

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