元女子プロ野球選手に聞く、夢との向き合い方(宮原臣佳さん)

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女子プロ野球・夢の軌跡

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元女子プロ野球選手に聞く、夢との向き合い方(宮原臣佳さん)

野球を愛するわかさ生活社長の角谷建耀知が2009年に創設した、女子のプロ野球リーグ「日本女子プロ野球機構(通称JWBL)」。さまざまな事情が重なり2021年末をもって無期限の活動休止となっている同リーグですが、プロ野球選手になりたいという女性の夢を叶える場でもありました。

わかさ生活のnoteでは当時リーグに所属していた選手へのインタビューを敢行し、彼女たちがどのように夢と向き合い、叶えていったのかをご紹介します。
記念すべき第1回目は、投手として活躍し、2016年にはゴールデングラブ賞にも輝いた宮原臣佳さんに登場いただきます。

野球をはじめたきっかけを教えてください。

野球にはじめて触れたのは、まだ2〜3歳の頃ですね。父が会社の野球部に入っていて土日に試合や練習があったのですが、私は父が大好きで離れたくなかったので、1歳上の兄と一緒について行っていました。

小学校に入る頃には、その兄と一緒に地域の少年野球チームに入団しました。当時はチームメイトに女子はいなかったのですが、幸いなことに周囲からは可愛がっていただいたので、寂しいという気持ちはなかったですね。ただ、大会などで結果を残すと、目立つからか性別について嫌なことを言ってくる人もいました。そんな時に両親は「嫌なことを言われた分は、良いプレーをすることでやり返しなさい。そうしたら認めてくれるから」と言ってくれて、その言葉は救いになりましたね。

プロ野球選手になりたいというのも、幼い頃からの夢だったのでしょうか。

当時は女子のプロリーグもなかったですし、実は小学生の頃はプロ野球をあまり観戦したことがなかったんですよね。野球以外にもやりたいことが多くて、毎日習い事ばかりだったのでテレビを見る時間がなかったんです。たまに見ても、走っている途中で減速したり、ラフなプレーがあったり、プロならではのスタイルを小学生が参考にするのは難しいなと感じていました。むしろ高校野球のひたむきなプレーの方が好きで参考にしていました。

野球はずっと楽しく続けていたのですが、他にも水泳とピアノも同じぐらい好きで力を入れていたので、自分はどの道に進めば良いのかは悩みましたね。野球に決めたのは小4の頃。県大会に出場して結果を残したところ、神村学園(学校法人神村学園高等部)には日本初の高校女子硬式野球部があると教えてもらい「やるからには上を目指したい」という思いが芽生えました。そこから、神村学園の女子硬式野球部に所属してエースになりたい、という夢を抱くようになりました。

最初の夢は、高校でエースになることだったんですね。

行くと決めてからは一直線でしたね。中学校には軟式野球部がありましたが、私が入りたいのは硬式野球部ですので、中学生の時点で硬式のボールに慣れておかないといけないなと考えました。そこで、中学では兄が所属していたボーイズリーグに入団することにしたんです。「ボーイズ」と名前がついているので、女子は大会に出られないという決まりがあったものの、私の目標は硬式のボールに慣れた状態で神村学園に入学することでしたので、別に問題はありませんでした。

今考えるとこれが一番良い環境だったのですが、家から徒歩で行ける範囲にグラウンドがあったんです。ボーイズリーグの練習がない時はそこで兄とキャッチボールをしたり、母が練習用のネットを作ってくれて、それを使って打撃やピッチングの練習をしたり、とにかく野球に打ち込んでいました。母は学生時代にバスケットボールやバレーボールをやっていたこともあって反射神経が良く、私がどれだけ変なところにボールを投げても即座に捕球してくれたんですよ(笑)。

神村学園への入学は、中学2年生の頃に推薦で決まりました。ただエースになるためには全国から集まってくる強豪選手たちとのポジション争いになってきますので、入学が決まった後も必死に練習は続けていました。

夢が具体的だと、何をすべきかもおのずと決まってくるんですね。

今でもたまに指導で関わることがあるのですが、特に生徒の親御さんは大会のメンバーに選ばれるかどうかや、成績など目先のことにとらわれてしまう方が多いと感じます。そういう時に私は「お子さんの本当の目標がどこなのか」「そのために今は何をすべきなのか」と、先のことを考えるように伝えていました。大会に選ばれないことは自分に何が足りていなかったのかを見つめ直す機会になるので、その経験は無駄なんかじゃないと思っているからです。

私にも挫折の経験があります。中1の頃に、今の自分のレベルがどれぐらいなのか確かめたいと参加した女子のワールドカップ(IBAF女子ワールドカップ)のトライアウトで、2次審査で落ちてしまったんです。ショックを受けましたが、今のレベルでは通用しないということを受け止めるきっかけでもありました。「次こそ絶対に受かる」という思いから2年間必死に頑張り、中3で初めて日本代表に選ばれることができました。

またトライアウトの参加者にはテニスやバドミントン、ソフトボールなどの経験はあるけど、野球をやりたいのにできていないという方が多かったです。これには衝撃を受けました。硬式野球をできている自分は恵まれた環境にいるんだなと感じましたね。

今でこそNPBの女子チームや実業団がありますが、当時はやりたくても環境がない、やる方法がわからないという方が圧倒的に多かったんです。神村学園に入学した2006年も、硬式野球部に所属していた先輩は3年生は5人、2年生は10人程度と少なかったですね。なぜか私の学年は17人と多かったんですが(笑)。エースになるという夢も、試合でエースナンバーをいただくことできちんと叶えることができました。高校生最後の大会でもエースナンバーをつけたんですよ。

神村学園でエースになるという夢が叶った後、次はどのような夢を見つけたのでしょうか。

2008年のワールドカップでは、最終選考で落ちてしまったんです。周囲からは絶対に落ちない、落とす理由がないと言われてきたので、背番号が呼ばれなかったときは頭が真っ白になりました。もう野球はやめよう、別の夢を探そうと思い、両親にも「合宿所から帰るので迎えに来てほしい」と泣きついたほどです。

ここが大きな分岐点だったのですが、私が野球をやめると言ったら大倉孝一監督もピッチングコーチも大慌てで、とにかく帰るな、この期間でさらに成長できるはずだと引き留めてくれたんです。親も迎えに来ていたのに、合宿所から出してもらえなかったんですよ(笑)。説得されているうちに、やっぱり野球が好きだから続けたいと思うようになりました。高校卒業後は大倉監督が理事長を務めていた日本メディカルスポーツトレーナー学院倉敷校に進学し、クラブチームの倉敷ピーチジャックスレディースに所属して、どれだけ成長できるかはわからないけど、球速130km/h投げてみたいという新しい夢に挑戦することにしたんです。監督からも2年後のワールドカップにはどーんと構えて臨もうと言われました。

そんな中、2009年に日本女子プロ野球機構が創設されました。

代表の片桐諭さんが大倉監督へ挨拶に来られた場に私も居合わせていて、プロ野球機構ができるとその場で教えてもらったので、創設を知ったのは早かったですね。トライアウトの参加者の募集がはじまって何人かが手を挙げる中、私はまだ1年生だからとその場では遠慮してしまいました。でも家に戻って「夢を叶えられるチャンスかもしれない」と思い直して、申し込みをしました。するとすぐに大倉監督から連絡があり、専門学校は2年制だから、もう1年学生としても倉敷ピーチジャックスレディースの選手としても経験を積んで、卒業してからプロに行く方が良いのではとアドバイスを受けて、そうすることに決めました。

2011年に京都アストドリームスに入団してプロ野球選手としての人生がスタートしました。これまでもワールドカップの日本代表として日の丸を背負って戦ってきましたが、プロ野球選手として背負う責任感は、比ではなかったですね。これまでは自分の夢にだけ向かって進んでいたのが、応援してくださるファンの思いも背負っていると気付いたからです。試合に来てくれる子どもたちは、私を見ることで希望や勇気をもらっているんだなと感じ、絶対にそれを裏切ってはいけない、たとえ成績が良くないときでも恥ずかしい発言や行動はしないと決めて過ごしていました。

ご自身の夢を追いながらも、周囲にも夢を与える存在になっていたんですね。

プロに入って1、2年目はうまくいかないことの方が多かったです。でもファンが見てくれていると思うと、大っぴらに弱音を吐くこともできない。そんな時に支えてくれたのは、大倉監督と両親ですね。大倉監督は私がワールドカップの最終選考に落ちてしんどい思いをしているときに支えてくれてから、何かあったらすぐに電話をしてこいと言ってくれました。そして両親は「自分で決めたことはあきらめるな、貫け」というタイプですので、「辛い経験をするには何かある」と励ましてくれました。

私はボールを投げることと打つことは好きだったんですが、守備と走るのがとにかく苦手で、練習は苦痛でしかなかったです。川口コーチ(元京都アストドリームス川口知哉氏)がいろんなところにコロコロと転がすボールを腰を落として捕球する特別レッスンを続けてくれたのも、ありがたい反面、辛くもありましたね。そんなときは辛い方に目を向けるのではなく、どうすれば自分が楽しく練習をできるかを考えるようになりました。走るのが嫌なら、ボールを遠くまで飛ばせばいいわけですし、腰を落としてボールを捕るのが嫌なら、バッターを打たせなければいい。得意を伸ばすことで不得意をカバーするというのは、どんな人にとっても夢を叶える第一歩になるんじゃないかなと思っています。

2016年にゴールデングラブ賞をいただけたのも、夢をあきらめなかったからだと思っています。一番になりたい、チームで優勝したいという夢を叶えるにはどうしたら良いのかと考えながら、必死にやり続けてきた結果を評価していただけたのは嬉しかったですね。ゴールデングラブ賞って制球力の高いピッチャーが選ばれるものだと思っていたので、私のようなパワーで押し切るタイプのピッチャーでもいただけるんだというのは、後輩にとっても励みになったんじゃないでしょうか。

宮原さんは、夢を叶えることに対してとてもポジティブに考えていらっしゃいますね。

やりたいことは全部やりたいという性格だからだと思います(笑)。何をするにしても、ある程度やらないと満足できないので、ただひたすら突き進んでいたら、こうなっていました。神村学園に入ってエースになりたいという夢にはじまり、ワールドカップの代表に参加したい、球速130km/hを投げたい、一番になりたい……叶えたいことはどんどん増えています。野球以外でも子どもがいっぱい欲しいし、保育士にもなりたい。美容系のお仕事も増やしたいですし、最近習っているタヒチアンダンスのセンターに立ちたいとか、夢は広がるばかりです。学生時代に恩師から「捨てない限り夢は逃げていかない」と書かれた色紙をもらって、まさにその通りだなと思っています。夢を追いかけられるのは自分だけ。だから自分があきらめたら駄目なんです。

自分がこういう性格だからか、後輩や若い世代の方からも夢の見つけ方がわからない、何からはじめたらいいのかわからないと相談を受けることがあります。人生が一度きりなのはみんな平等なんですから、やりたいことがあるならチャレンジしないともったいないですよね。だから、まずは何をすると楽しいのかを考えてもらうようにしています。わからない未来を想像して怯えるより、ワクワクする方を考えたら楽しくなるよと伝えると、みんな顔が明るくなりますね。たぶん夢が見つからないと言っている方の中には、夢に向かって進むために背中を押してほしいと思いを持っている方が多いんじゃないでしょうか。

プロ野球選手時代はわかさ生活の社員として活動されていましたが、今はわかさ生活のWAKASAPortに登録されたり、「花鈴のマウンド」の書店営業もされているんですよね。

わかさ生活さんとは、引退してからは特につながりがなかったのですが、知り合いからの紹介で書店営業のお手伝いをすることになったんです。わかさ生活さんの社歌「あなたから始まる」がとても好きで、たぶん女子プロ野球選手の中では自分が最初にCDが欲しいって言ったんじゃないでしょうか。歌詞が良いんですよね。家でも車でも流していますし、引退前にアストロドリームスのOG会でカラオケに行って最初に歌ったのも「あなたから始まる」でした(笑)。

本当はもっと深くつながれたら良いのかもしれないですけど、今は本職がありますし、やりたいことも多いので、本格的に動こうとするとキャパオーバーになってしまいます。でも私は女子が野球選手になるという夢を叶えた一人ですし、たくさんの方に応援をしていただいたし、わかさ生活さんへの愛着も捨てられませんでした。今の私にできる精一杯は「花鈴のマウンド」をたくさんの方に読んでいただけるようにプロモーションのお手伝いをすることかなと思います。

最後に、若い世代の野球少女たちへのメッセージをお願いします。

目先の小さなことにとらわれすぎてしまうと、結果的に何もできません。夢って周囲から「無理だ」って言われるくらい大きな方がチャレンジしがいがあるんです。今は女子のプロリーグがないからとか、メジャーがないからとかを考えず、こんなところで試合がしたい、どんなボールを投げてみたいなど、そういう目標に向かって突っ走ってほしいですね。

宮原臣佳(みやはらみか)
1990年奈良県出身。2011年に女子プロ野球に入団し、主に投手として活躍。2013年に不動のエースとして活躍し、2016年にはゴールデングラブ賞を受賞。IBAF女子ワールドカップには2006年、2010年の2回出場。2018年の引退後、現在は美容関係で活動中。

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